新聞掲載記事から転載しました。 日本経済新聞 2002.09.05 (木)、30面



「中津のハモ」

小泉 武夫さん(東京農業大学教授)


旅先で友とばったり、不思議な縁

旅先で、それもずっと遠い地で友人、知人とばったりと出会う時のうれしさは、ある種の感動でさえある。それも、つい数日前にあった友であったりすると、驚きのあまり、最初は声にならないほどのカルチャーショック的心情となり、時間をおいてから「ウワーッ」と叫んで抱き合ったりする。
 実は先日、大分県中津市に行った時のことだ。作家城山三郎氏のベストセラー小説「指揮官たちの特攻」に出てくる「筑紫亭」という歴史とともに歩んできた日本料理屋があって、そこのハモ(鱧)料理は格別に美味だというので、大分大学での講演の合間を見て、その老舗に行ってみた。さすがに秘境の耶馬渓から流れ出る清流が海水と混じり合った地で育(はぐく)まれたハモだけあって、そのおいしさは絶妙であった。
 繊細に骨切りしたハモをさっと熱湯にくぐらせた湯引きハモを梅肉につけて食べた時は、ほっぺたが本当に落ちるのではあるまいかと、正直申し上げまして心配したほどだった。口に入れると、梅肉の奥ゆかしき酸味がハモの肉からの上品にして美味に包まれた甘みとうまみとをチュルルと引き出し、そしてしっとりと乗っていた脂身から出てきたコクの妙味が、その甘みとうまみに絡まるものだから”頬落舌舞”の味がし、ほかの料理も美味だった。
 そして、その老舗の女将(おかみ)が食事中に突然、「明日、渡辺貞夫さんがこの店に来るんですよ」と言う。瞬間、私はえっと思った。話を聞いてみると、渡辺さん率いるジャズ演奏団が、子供たちに音楽の素晴らしさを教えるための「第三回渡辺貞夫と笑顔つなげてコンサート」公演のために中津市に来ているのだ、という。渡辺さんは超過密なスケジュールの合間を縫って、毎年、ボランティアのようにして中津市に来てくれているとのことだった。
 びっくりした。渡辺さんと私は実は家族ぐるみの付き合いをしていて、しばしば私の厨房(ちゅうぼう)「食魔亭」にご家族でいらっしゃる。その日の一週間後にも私の家に来ることになっていたので、あまりの偶然に驚いたのであった。そこで早速、食事の途中ではあったが渡辺さんに逢(あ)いに行った。渡辺さんご夫妻は私を見るなり、それも大分県中津市という遠い地での突然の出会いに驚いていて、一瞬の間をおいてから「ウワーオッ」と抱きついてきた。互いが”激忙”という名の、土砂降りの雨に降られてずぶぬれの身なのに、どうしてこんな広い日本の、点のようなところで出会うのか、世の中は狭いというが誠にもって不思議であった。




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