新聞掲載記事から転載しました。 日本経済新聞 2001.12.13  30面



「朝のムツ粕漬け」
小泉 武夫さん(東京農業大学教授)

旅の途中での朝食は、二日酔いの時を除けばこれが天国での至福の時か、と思うほどうまい。前夜、酒をほどほどにして、肴(さかな)の方も胃袋の容量の三分の二ぐらいにとどめて、翌朝を迎えると、朝飯のうまさは格別である。
 まず、みそ汁をすする。ズズーとすすってから、ひと呼吸おいて、静かにゴクリとのみ込むと、汁は食道を下っていって胃袋に達し、その胃袋あたりがじんわりと熱くなる。こうして、さあ行くぞと胃袋に伝えてから、いよいよ炊きたての飯とおかずを送り込むのだ。
実は先日、東北のある町のホテルでの朝食はうれしいかなムツの切り身の粕(かす)漬けを焼いたものが出てきた。まず、その焼き色が食の欲を大いにそそり立たせた。空腹の時にこのように目からも誘ってくるものだから、もうたまりません。しかし、いきなり箸(はし)をその焼きムツにまっしぐら、なんでいうことは百戦錬磨の味覚人飛行物体は致さない。そこは、はやる心を厳しく抑えて、じっくりと落ちつかせて、すべての雑念を振り払い、瞑想(めいそう)にふけるのである。ムツの切り身ぐらいのことで大げさかなあ。
 そして、醤油を三滴ほどたらしてから、いよいよ焼き具合がキツネ色になっている、その切り身に箸をつけて身をほぐした。すると、肉身は端の方から一枚一枚、ポクリポクリとはがれていくのであった。そのほぐれ身の一片を熱い飯の上に乗せ、飯と一緒に口に運んだ。瞬間、鼻孔からは焼けたムツの香ばしいにおいと醤油と酒粕の融合した芳香がスーツと抜けてきて、次に口の中は、ムツの濃いうま汁と脂身から溶け出してきた豊満なこく味が広がり、そこに飯の上品なうまみと甘みとが覆いかぶさるものだから、たまりませんなあ。朝というのに、ご飯茶碗に三杯もお代わりした次第だ。




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