新聞掲載記事から転載しました。 日本経済新聞 2002.07.08(月) 夕刊 11面



マグロのトロ
荒俣 宏さん(作家)

 どうも昔から信じられない話が、ひとつあった。つい最近まで、まぐろのトロを食べる日本人はいなかった、という定説である。
博物学をやっている関係で、いろいろと文献をあたってみた。妙な逸話も多い。江戸時代にこの魚は「しび」と呼ばれていたが、「死日」に通じるので祝儀にも使えず、おまけに味が悪いと評判だった、というのだ。野田に醤油産地ができ、江戸前ずしの「づけ」として出回るようになってから、ようやく江戸庶民にも定着した。とはいえ、江戸前ずしが誕生するのは江戸の後期、両国に開業した花屋与兵衛が創業したので、せいぜい百五十年前のことである。おまけに、づけに使われたのは赤身だった。
 東大の魚類学者だった田中茂穂にいわせると東京に集まった学生相手に安いトロが使われたおかげで、この学生たちが卒業後に日本全国に、散ってトロのうまさを宣伝したから、だそうなのだが、どうもピンとこない。
 「それが昨年の夏に、すっきり解決した。家業の魚問屋を四百年守りりつけている日本橋「大善」の先代、寳井善次郎さんに話を聞けたからだ。明治四十一年生まれとは信しられないほど記憶が正確でいらっしゃる。お話しぶりも久々に聞く江戸弁だった。
 大善は、今や数少なくなった近海産まぐろの専門店だが、まぐろだけ扱うようになりたのはお父さんの代からだそうだ。つまり明治から大正にかけて、ようやくまぐろ一本で商売がやっていける環境になったということだ。
 「まぐろが下魚とされてたのはナ、ありゃあ赤身ですぐに鮮度が落ちるからだ。そこヘ行くてえと、たいのような白身は当たる心配がねえから高級だった。冷蔵庫なんでもナあ、ねえ時代だからな。トロみてえな脂身は、もっと保(も)たねえ。だいいち危なくて食えねえんだから、手を出す者はいるわけがねえ」
 なるほど、さすがに魚河岸の旦那だ。納得した。江戸の頃は中毒が出ないように塩漬けにして売られた。塩シャケと同じ加工物だから、鮮魚屋が扱う商品ではなかった。
 しかし善次郎さんのお父さんはまぐろに惚れこみ、まぐろのおいしさを日本じゅうに知らせるために浅草ですし屋を開いた。大正十一年十二月のことだそうだ。このとき戦略に活用したのがトロの握りずしだった。脂っこいトロを酢飯とともに食べさせると、これがまた絶品だった。週一回はサービスデーとして十五銭(通常二十銭)で一人前出したというから、学生が味をしめたのは、この大善ずしだったにちがいない。
 お父さんはまた、関東大震災のあと魚河岸が築地の「海軍ヶ原]に移転するとき、最後まで反対運動をされた。なにしろ先祖にあの實井其角を出した家柄なんだから、日本橋を離れてたまるもんか。そういう気持ちだったのだろう。
 まぐろのトロが現在のように超高級食材になるには、大善のような普及のための努力や冷凍・冷蔵技術の発達が欠かせなかった。現在のお店の旦那は息子の棋善さんだが、「トロだトロだと騒ぐが、ほんまぐろの中落ちのうまさを知らねえだろ」と、手ずから骨のあいだの身をすくりてへ試食させてくれた。
 正直に書く。トロは賛沢だが中落ちは感服だ。いくらでも食べられる。




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