新聞掲載記事から転載しました。 日本経済新聞 2002.02.21 & 02.28
「キチジの煮付け」・「キチジで悦惚」

小泉 武夫さん(東京農業大学教授)


「キチジの煮付け」  日本経済新聞 2002.02.21 34面

 居酒屋あたりで「キチジ食いてえ」なんて大胆な考えがわき出て、品代を見ると大抵「時価」なんて書いてあるものだから、「おっとっとっと、危ねえ危ねえ」なんて思ったりして心が萎(な)えることもある。
 そのあこがれのキチジ(キンキ、メンメ、キンキンとも呼ばれる)を釧路にいる魚卸商の魚谷弘子さんに格安で送ってもらって、料理して食った。うれしすぎるほど美味の魚なので心躍る。友人とは遠くに在りて思うもの、市場街に居てくれてなお有り難きものですなあ。そのキチジは私のからだのようにまるまるとしてはいたが、私と違うのは押してみると実に良く締まっていて、さすがは釧路の沖で揚がったものだけのことはあった。送られてきた三匹のうち、一匹は煮付けにし、あと一匹は塩焼きにし、残った一匹は甘塩加減の開き干しにした。これ、キチジの三大賞味法。
 三つの食べ方はいずれもほっぺた落としの味がしたが、中でもすべての雑念が振り払われるほど美味だったのは煮付けてあった。大型の鍋にうろこを去り、腸(わた)を抜いたキチジを一匹、デンと入れ、それを酒、みりん、醤油(しょうゆ)、砂糖などで味付けし、じっくりと煮込んだものだ。その出来上がりを平皿に盛ってみると、深紅だった体表にはやや飴(あめ)色が混じり、唇あたりがピロンピロンしている。心落ち着けて第一箸(はし)その身はプリンプリンしていて締まり、肉身と薄皮の間には白色透明の脂肪層があった。それをひと箸むしりとり、口に入れた。瞬間、鼻からは醤油とみりんの甘しょっぱい匂(にお)いが入ってきて、舌の上ではトロリと脂身が溶けだし、そしてその中から、無垢(むく)と思われるほど上品な、肉身のうまみと甘みがじんわりと出てきた。その挺(よだれ)、次回まで取っておいて下さい。

「キチジで悦惚」  日本経済新聞 2002.02.28 34面

 酒、みりん、醤油(しょうゆ)などで甘めに煮付けたキチジはあまりに美味だった。ご飯茶わんに盛った炊きたての熱い飯の上に、その煮付けの背びれあたりのブヨブヨした部分を箸(はし)でちぎり、のせる。 まず、真っ白い飯の上にキチジの皮の赤い色が目にさえて、まぶしいほど美しく、それを乳白色にして透明な脂肪層がキラキラと光らせてくれて、実に官能的光景だ。そして、その部分を箸でグッと取り、口の中に入れた。すべての雑念を払って、ただただ無我の境地でかみ始める。すると口の中では、飯から出てきたかすかな甘みの上にキチジの肉身からわき出てきた上品にして淡泊なうまみ、そこに脂肪から溶け出してきた濃厚なこくみが重なるのだから、おらあもう駄目だ、我慢ならねえとばかりに顎下(がくか)に飲み下すのであった。
その後はエクスタシーの連続であった。そして、ふと我に返り、悦惚(こうこつ)とした世界から目を覚ますと、何と茶わんに三杯もの飯が胃袋の中にすっ飛んで入っていたのであった。快感の世界から一挙に現実の世界に戻り、膨満した腹を抱えてゲップの (おくび)。こりゃせっかくのエクスタシーの陶酔も幻滅だわ。
生のキチジの塩焼きもとりわけ美味だったけれども、甘塩加減にして開き、それを一夜子しした方は負けず劣らず美味であった。焼いているとき、表面が焦げ出し始めると、ピューピッピッ、と鳴き出して私を誘う。ちょうどきつね色ぐらいにまで焼き目が付いたらば、さっとひっくり返して、今度は皮側を焼く。皮から香ばしい芳香が立ち、表面がふくれて焦げ目が付きだしたら焼き上がり。それを大きな取り皿に取り、まずじっとにらんでから、目玉辺りに箸を入れ、そこを食う。ブヨンブヨンしたゼラチン質と脂肪質とが口の中で一体となり、心はすでにまたまた恍惚よ。




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