新聞掲載記事から転載しました。 日本経済新聞 2002.05.23  36面



「生干しキスの誘惑」
押し寄せる上品な甘みとうまみ
小泉 武夫さん(東京農業大学教授)

 魚偏に「喜」と書いてキス(鱚)。キスというのは人間界ばかりにあるのではなく、魚の世界にもあるのですなあ。うぶな私、全く知りませんでした。そのキスがこのところますます美味になってきた。 やや黄味を帯びた淡青色の細長い体は、いかにも、私を食べてください、と誘ってくるほどだ。まあ、魚の方から食べてほしい、と言うわけはないのだけれども、しかし、いつ見てもその姿態といい、淡い色といい、魚好きを惹(ひ)きつけずにはおかない。
 江戸元禄期の「本朝食鑑」には江戸の芝浜や品川、中川あるいは相模湾や駿河湾で七月から八月、船を浮かべてキスと釣り、房総の海浜では特によく採れた、といったことが記されている。昔は、今の東京湾でキスを釣るのを大いに楽しんでいた様子がよくわかる。道理で江戸前のてんぷらに今でもキスが欠かせないわけだ。
 確かにキスという魚は、白身の淡泊を第一の身上とするから、これに衣をかぶせて、油で揚げててんぷらにする食い方は至上の賞味法であろう。
 それもそうだが、キスの真味を本当に知ろうとするならば、生干しにしたものをさっと焙(あぶ)って食うのも捨てがたい賞味法で、私はいつもこれをつくっている。うろこと腸(わた)だけ去って頭と尾は残すか、または三枚におろして、しばらく立塩(たてじお)に浸し、水気を切って風通しのよいところで陰干しにした、いわゆる生乾きの風干しだ。干上げたものを、親指と人さし指とでつまんで、その干し具合を見ると、表面の水気はほとんどなくしっとりとしていて、その弾力はポッチリムッチリの体である。そしてその色の美しいこと。皮側は、黄色みを帯びた色合いが少し深くなり、ややあめ色っぽくなってきて、そして肉身の側は、おろしたての純白から少し黄赤みを帯びた白に変わっていて、そのうえ、表面には光沢が出、日の光に掲げ見ると、おやおや、何と透き通るような妖(あや)しさまで、そこにはあった。
 もう居ても立ってもおれず、はやる心を抑えつけておく自制もできずに、我が家の厨房(ちゅうぼう)「食魔亭」に風干しを走って持って行って、さっと焙って食べた。口に入れると、最初はちょっと甘みが広がって、その直後に、さらに上品な甘みが重なってやってきて、身ばなれのよいキスの肉片が口中にほとばしり、そこ,からはこれまた上品無比の軽淡なるうまみがわき出てくるのであった。それをじっくりと味わいながら、どうりでキスの味は人間界でも大喜びするはずだと思った。




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