新聞掲載記事から転載しました。 日本経済新聞 2003年1月18日(土)夕刊
希少な食品奥能登と呼ばれる石川県の能登半島北部にはイカの肝を熟成させた魚醤油(ぎょしょうゆ)、「いしり」を用いる食文化が息づいている。この地でいしりは焼き物や鍋料理、漬物など郷土料理に欠かせない液体調味料だ。しょっつるで知られる秋田県と並び魚醤油の二大産地である奥能登に、いしりの味を訪ねた。
足元は深さ50センチほどのまっさらな雪だった。長靴で前を行く船下智宏さん(55)の足跡を慎重にたどり、いしりの製造小屋に向かう。船下さんは石川県能都町の料理民宿「さんなみ」の経営者で、宿から車で15分ほど離れた所で自家製のいしりを造っているのだ。小屋の戸を開けると冷えた空気の中に、イカの薫製と似た香りがよどみ、プラスチック製の4百リットルタンクが並んでいた。ふたを持ち上げて中をのぞくと濃い茶褐色に溶け合った固形層が、いしりとなる液体成分の表面を覆っていた。
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「イカの肝に大量の塩を加えたものを毎年7、8トンタンクに仕込んでいる。私はこれを2年熟成して発酵させ、1度だけしぼって自家製のいしりにしている。いしりになるのは原料の20%分ぐらいだと思う」と、船下さんは話す。
絞ったいしりは1度火を通して殺菌し、熟成を止める。大豆から造った通常の醤油に比べ黒っぽく、小皿に取って鼻に寄せると磯の香りと似た濃厚な風味が漂う。イカの肝に由来する生臭さはほとんどないが、好き嫌いが分かれるかもしれない。口に含むと塩辛さと共に、熟成された強いうまみが広がった。
いしりは能登半島の多くの伝統的料理に使われている。船下さんは「特に合うのは貝焼きだろう」と話す。ホタテの大きな貝殻にその季節にとれるイカの切り身や甘エビ、大根、ナスなどをのせ、昆布だしのいしり汁を加えて煮た料理だ。エビやイカの味にいしりの香りが混じり、独特の風味を醸し出す。
また、ワカメやイワノリなど各種海草を使った海草しゃぶしゃぶも、鍋のベース味としていしりを使う。ざるに山盛りにした海草をはしでつまみ上げ、鍋にくぐらせた瞬間、黒々とした海草が一気に明るい緑に変わる。見た目にも鮮やかな料理だ。
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刺し身のたれとしても非常に相性が良い。寒ブリの大きな切り身をいしりに浸すと、あぷらがいしりを弾かんばかり。そのまま口いっぱいにほお張ると、ブリの歯応えを追いかけるように、いしりの味が舌の上ではじける。
同じ能登半島でも輪島市の近辺では、イカではなくイワシを魚醤油の原材料としている。いしりとは違った風味になり、「よしる」や「よしり」と呼ばれている。2種類は混同されることが多いが、地元では区別して使っている。
その昔能登半島沿岸の漁家は、いしりを半島内陸の農家との物々交換に使っていたという。能都町で漁業に従事する田辺一夫さん(54)は、「このあたりは海に山が迫って田が少ない。漁師が米や野菜を得るために、自家製のいしりや魚と取引したことはあったようだ」と話す。さらに田辺さんは「農家の娘が漁師に、漁師の娘が農家に嫁ぐことも多かった」と話す。それぞれの実家が産物を交換し合う時、いしりは漁家から農家への贈答品でもあったようだ。
しかし戦後に至って、いしりは衰退の一途をたどった。醤油が大量に供給され、自家製のいしりを造る人もほとんどいなくなった。船下さんがいしり造りを始めたのは20数年前。旅館業を継ぎ、「能登半島でしか味わえない特別な味」を求め続けるうち、子供のころ味わった味覚の再現を考えるようになったためだ。素朴な味としていしりが再発見され、人気が出始めたのはそれからだという。船下さんは「いしりは能登の食文化そのもの。大切にしていきたい」と話していた。
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